江戸を楽しむ

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第壱回

武士と菓子

 上白糖を使った甘い和菓子を庶民も気軽に購入できるようになったのは、江戸時代後期になってから。風月堂の初代・大住喜右衛門が京橋に店を開き菓子屋を営んだ宝暦~天明期には、まだまだ武士や一部の富裕層のみが享受出来る高級品でした。当時はいわゆる田沼時代。武士の世界では羽振りの良い接待が良しとされ、交際費が年収の4分の1程になることもあったといいます。そんな武士同士の付き合いの中でも、和菓子は特に重要な役割を果たしていました。

 こんなエピソードがあります。ある時、永井求馬という旗本が新たに小普請組頭に任命されたので、同役の諸先輩方を自宅に招いて和菓子や料理を振る舞いました。ところが後日、そこで出された和菓子が「鈴木越後のものではなかったのではないか?」疑惑が浮上し大問題になってしまったのです。鈴木越後というのは当時の超高級有名菓子店の名前。慣例ではここのものが振る舞われるはずでした。同役たちはすぐさま永井とその師匠番(指導係り)を尋問し、出されたのが鈴木越後のものではなく、安価な菓子であったことを白状させ土下座して謝らせたのです。甘い物の恨みは怖いっ!

 このような昇進祝いや冠婚葬祭の席では勿論、五節句や、現在ではすたれてしまった6月16日の嘉祥や10月の初亥の日の玄猪の祝儀にも和菓子はつきもの。特に嘉祥は和菓子が主役となる一日で、嘉祥食といって和菓子を食べる習慣がありました。

 また特別な行事でなくとも、茶の湯をたしなむ武士にとって茶菓子は欠かせませんでした。田沼時代の後、幕政を牽引して寛政の改革を行った松平定信も、茶の湯を愛する文化人。風月堂の二代目・喜右衛門は、他でもないこの定信公の知遇を得て名だたる大名家御用達の菓子屋になっていったのです。

 武士の生活には、常に和菓子がよりそっていたのですね。

本文イラスト:ほーりー

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