HOME ブランドサイト 江戸を楽しむ 上野凮月堂界隈の歴史②~上野広小路編~

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第十四回

上野凮月堂界隈の歴史②~上野広小路編~

 現在の東京は建物だけ見ればビルばかり。とても歴史を感じられるような景観ではありませんが、道筋は案外江戸時代のまま残っていたりします。

 

 上野広小路はそんな場所の一つ。現在上野風月堂が店を構えているあたりから西郷さんの銅像があるあたりまでがその範囲です。中央分離帯を挟んで左右に三車線づつある相当広い道路ですが、この道の形がほぼ江戸時代のまま!なんですね。江戸の市街地の60%を焼き尽くし、10万人以上の死者を出した明暦3年(1657年)の大火以降、幕府は災害に強い都市作りを目指しました。その一環で、人が多く集まる重要な場所の近くには火除け地となる広場=広小路が作られることになり、江戸一番の大寺院・寛永寺門前に造られたのが上野広小路だったのです。

 

 多くの人が行き交う上野広小路沿いに商店が集まってにぎわう様子は第五回コラムに書いた通りですが、実は江戸で唯一戦場となったのもこの場所でした。

 慶応4年(1868年)5月、新政府軍の統治を認めない旧幕臣らが彰義隊を結成。寛永寺に立てこもりました。これを受けて新政府軍が寛永寺を包囲。最前線となる上野広小路には西郷隆盛率いる薩摩軍が布陣します。雨の降る5月15日、朝7時頃から戦闘が開始され、広小路が戦場になりました。新政府軍は付近の料亭や商店を大砲などの砲撃拠点として利用し、本営を上野松坂屋店内に置いたのだとか。当時使っていた店の看板には銃弾の跡が生々しく残っているそうです。ヒェッ!

 住人達はさぞ恐ろしい思いをしたことだろうなぁ・・・と思いきや案外ケロッとしていたらしく、中には握り飯を片手に見物に出かける人もいたとか。江戸っ子の野次馬根性恐るべし!戦闘はその日の夕方ごろに新政府軍の勝利で幕を閉じ、時代はいよいよ、江戸から明治へと移ってゆきました。

本文イラスト:ほーりー

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