江戸を楽しむ

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第五回

凮月堂、上野へ

 上野風月堂が現在の場所に店を出したのは明治43年の事。土地の購入資金は1万円(現在でいうとおよそ10億円以上!)だったといいます。かなり思い切った投資ですよね。風月堂はいったい何故、上野に進出したのでしょうか?

 上野界隈の発展は江戸時代初期、幕府が上野の山内に寛永寺を作ったことに始まります。江戸城の丑寅(北東)の方角にあたるために鬼門守護の性格を持ち、後に徳川将軍家の菩提寺となると江戸の寺社の中でも別格の存在感を示すようになりました。元々桜の名所だったこともあり庶民の行楽地としても大人気に。山下に火事の時の火除地となる広場=広小路が作られると、沿道に沢山の商店が立ち並び繁華街として成長していったのです。
 

 現在もこの広小路に面して店を構える松坂屋は、江戸時代中期に名古屋から進出した呉服の大店でした。尾張徳川家、加賀前田家といった名だたる大名家の御用を務め、寛永寺で用いる法衣を独占販売するなど手堅い商売で信頼されていました。ちなみに新撰組の副長・土方歳三も少年時代に松坂屋で丁稚奉公をしていたといわれているんですよ!上野界隈を土方が歩く姿を想像すると、なんだかワクワクしますね。また、歌川広重の『名所江戸百景』の版元もこの辺りにあり、文化の発信地としても重要な場所でした。

 幕末に上野戦争で一時荒廃するも、明治に入って上野公園が整備され、その広大な敷地を使って様々な博覧会が開催されると再び脚光を浴びます。さらに明治17年には上野駅が開業して人口が倍以上に増え、町の雰囲気は一層活気にあふれてゆきました。
江戸時代初期からの長い歴史と豊かな文化をはぐくみつつ、明治維新後は時代の最先端を行っていたのが上野だったのです。老舗でありながら洋菓子作りのパイオニアとして好評を博していた風月堂とは、相性抜群の土地柄だったんですね。

本文イラスト:ほーりー

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