HOME ブランドサイト 江戸を楽しむ 凮月堂ゆかりの人びと 其の①水野忠邦

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第十回

凮月堂ゆかりの人びと 其の①水野忠邦

 水野忠邦は寛政6年(1794年)に江戸の芝西久保にある唐津藩上屋敷で、唐津藩主・水野忠光と側室・お恂との間に生まれました。このお恂が風月堂初代・大住喜右衛門の姪っ子で、喜右衛門の養女となって大住家から水野家に奉公に上がり、側室になった女性です。忠邦が生まれた当時は正室の子が嫡男として次期藩主と思われていましたが、間もなく夭折したために繰り上がりで忠邦が次期藩主の座に就く事に。生母であるお恂は宿下がりとなり、わずか6歳の忠邦と離れ離れになります。世知辛いですねぇ。

 忠邦はその後、18才で唐津藩主になると藩制改革に着手して藩の財政の立て直しを図るなど辣腕を振るいました。同時に幕府の要職に就く事を望むようになります。唐津藩は実高20万石とも言われる豊かな藩でしたが、長崎警護役を課されているため幕閣の一員となることができなかったのです。この為に周囲の反対を押し切って転封の為のロビー活動を行い、ついに「出世城」とも言われた幕閣への登竜門、浜松藩への所替えに成功しました。運がいよいよ開けてきたというまさにその時、生母・お恂が50歳で亡くなってしまいます。忠邦は相当なショックを受け、生涯 "我身をば 無常の風にさそわれて 愛でし我が子を見捨ててぞ行く" という母の辞世の句を肌身はなさず持っていたそうです。自分の出世を誰よりも母親に喜んで欲しかったのかもしれませんね。

 彼はその後、老中首座にまで上り詰めて天保の改革を主導しましたが、どんなに出世しても生母・お恂の実家である風月堂を忘れることはありませんでした。忠邦の引立てもあり、風月堂はお恂が再婚して入婿になった二代目喜衛門の代で江戸でも指折りの御用菓子商となったのです。亡き母がつないだ水野忠邦と風月堂の縁。教科書が教えてくれない、知られざる歴史の一コマです。

本文イラスト:ほーりー

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