HOME ブランドサイト 江戸を楽しむ 凮月堂ゆかりの人びと 其の③市河米庵

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第十二回

凮月堂ゆかりの人びと 其の③市河米庵

 白河楽翁公(松平定信)から風月堂の名前を賜ったことを喜んだ水野忠邦は、ある書家を招き巨大な布に「風月堂」と揮毫させ暖簾を作りました。風という字が旧字体の〝凮〟になっているのが特徴。その理由の詳細は、はっきりと分かっていませんが、和菓子の店の暖簾に〝虫〟の字が入るのを嫌ったという説があります。さりげない配慮に書家のこだわりとそこしれぬ手腕を感じますね。

 書家の名は市河米庵。巻葵湖・貫名菘翁らとともに「幕末の三筆」に数えられている人です。米庵の父・寛斎は富山藩前田家の藩校教授を務める教養人で、特に詩人として名高く、江戸の詩風を一変させたとも言われる有名文化人でした。その子として英才教育を受けた米庵がハマったのが書道です。20歳で小山林堂という書塾を開くほどの実力を身に着け、25歳の時には中国の書を本格的に学ぶために長崎に留学。中国人から直接指導を受け、最新の明清の書画を蒐集しまくりました。また文房具集めも趣味で、お気に入りの筆218枝を選んで書譜2巻を編纂するほど愛情を注いでいます。ものすごいオタク気質だったんですね!

 好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、30代にはいって父の跡を継ぎ富山藩前田家につかえるようになると書の実力が広く知られるようになります。やがて加賀藩前田家に招聘され、江戸と金沢を往復して書の指導に当たる超売れっ子書家として全国にその名をとどろかせるようになりました。風月堂の暖簾に揮毫したのはちょうどこの頃です。

 晩年まで精力的に活動した米庵の門人数は幕末には5000人を超え、門前に屋台が出たという逸話があるほど。著述業による功績も大きく、彼が著した手習いの本『墨場必携』は現在も書道家の座右の書として愛読されています。後世に大きな影響を与えた、江戸時代を代表する書家の一人でした。

本文イラスト:ほーりー

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