上野風月堂について

History of Fugetsudo

26 端午の節句のお話

 五月五日の端午の節句に、鎧兜を纏った人形や鯉のぼりを飾るスタイルが確立したのは江戸時代のことです。

 もともとは古代中国で始まった厄除けの風習。旧暦の五月は新暦の六月にあたり、梅雨時で湿気も多いため、虫がわき伝染病も流行しやすかったので、の月(五月)の(始め)=端午に薬草を摘んで食べたり、殺菌作用のある菖蒲の酒をのんだり、厄除けの鐘馗絵を飾るようになりました。

 これがやがて陽の数が重なる五月五日の行事として定着し、日本にも奈良時代に伝播して宮中行事になります。この時、菖蒲をはじめとする薬草をまとめて薬玉(開店祝いなどで使われる薬玉の原型)を作って飾るようになるなど日本独自のアレンジが進みました。

 やがて江戸時代になると端午の節句はさらなる独自進化を遂げます。

 まず、端午の節句のマストアイテム・菖蒲の音の響きが、勝負、尚武につながるとして武士の節句として広まりました。また、天下泰平になると武士たちは戦の時に必要な鎧兜や吹き流しを滅多に使わなくなります。梅雨時には湿気が多いので、メンテナンスのため五月晴れ(梅雨時に珍しい晴れ間)に外に出して虫干しの必要があり、これが端午の節句と結びついて行事飾りとして定着するのです。

 これを見ていた庶民が「自分たちも端午の節句を祝いたい!」とマネをするようになり、武家飾りをそのままマネするのははばかられたため、吹き流しの代替として作りだしたのが鯉のぼりです。鯉は天に昇って龍になる出世の象徴。端午の節句は、こうして男子の健やかな成長を願う行事に生まれ変わったのでした。

 ちなみに柏餅を食べるようになったのも江戸時代の事。男子のいる家が親戚縁者に配ったそうで、多い場合は数百個を用意したとか。発注を受けた風月堂のような御菓子屋は大忙しだったことでしょうね。