上野風月堂について

History of Fugetsudo

1747 江戸のおはなし

1747年(延享4年)、風月堂の始まり

270年あまりに及ぶ風月堂の歴史は、1747年(延享4年)に初代大住喜右衛門が大阪から江戸へ下り、店を開いたそのときに始まりました。
大阪時代、喜右衛門は縁続きの呉服商で修行をしながら「江戸には上方にあるような美味しいお菓子が少ない。商売をするなら人に喜ばれるものを作って売ることだ」と決心し、江戸へ向かったのです。そして宝暦年間、「風月堂」の祖となる菓子商「大坂屋」を江戸の地で開業しました。

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初代大住喜右衛門が江戸に下ったときは第9代将軍徳川家重の治世。といってもなかなかピンと来にくいですが、世界に目を向けてみると、キャプテンクックがオーストラリア大陸に上陸したのが1770年。それよりも前に風月堂はこの世に産声を上げていたということになります。

《江戸京橋の風景》*1

二代目喜右衛門の妻は水野忠邦公の生母​

順調に菓子商を営んでいた初代喜右衛門ですが、惜しいことに子には恵まれませんでした。そこで姪にあたる恂(じゅん)を養女に迎えました。​
やがて恂は、唐津藩主水野家に奉公へ上がった後、当主忠光公の側室となりました。そして1794年(寛政6年)、後の老中となる水野忠邦公を生むのです。​
その後、忠光公の長子が夭折したため、次男の忠邦公が世嗣となります。生母である恂は当時の習わしに従って喜右衛門の家に戻りました。​
そして1812年(文化9年)、忠邦公は家督を相続して、肥後唐津藩主に。一方、恂は二代目喜右衛門を婿に迎え、夫を支えながら夫唱婦随の店として「大坂屋」をもり立てていったのです。​

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1787年(天明7年)、後に風月堂と深い関わりを持つことになる松平定信公が寛政の改革に着手。世界ではフランス革命が始まり、アメリカではジョージ・ワシントンが初代大統領に就任しました。​

《水野忠邦公御肖像  東京都立大学図書館蔵》

二代目喜右衛門と水野忠邦公の温かな関係​

唐津藩主となった水野忠邦公は生母の新しい夫である二代目喜右衛門を引き立て、お出入りの菓子商人として厚く遇しました。

大坂屋の菓子は評判が評判を呼ぶようになり、やがて二代目喜右衛門も菓子司として、諸大名家への出入りが許されるようになります。​

そして、ついには松平定信公(当時は既に筆頭老中を辞して楽翁と号し隠居していました)に気に入られ、松平家の御用菓子商となったのです。​

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高田屋嘉兵衛が国後島航路を発見したのが1801年(享和元年)、1808年(文化5年)には間宮林蔵が樺太を探検するなど、日本にも「グローバル化」の波が少しずつ寄せてきた時代です。そんな中、1812年に(文化9年)初代喜右衛門が没しますが、既に二代目喜右衛門は風月堂の磐石な土台を築きつつありました。​

風月堂の名づけ親は松平定信公​

文化年間のこと。​

その誠実な人となりが高く評価された二代目喜右衛門は、松平定信公から、「汝が心事の清白なるを愛する。これをもって屋号とせよ」と「風月堂清白」の五文字を賜りました。「風月」とは定信公の雅号でもあり、これをいただいたことは喜右衛門にとって大変な名誉でした。​

喜右衛門がこのことを義理の息子にあたる水野忠邦公に報告すると、喜んだ忠邦公は当時の名書家・市河米庵を招き、巨大な白布に「風月堂」と揮毫させました。そして「これをもって店頭に掲げよ」と、喜右衛門に贈ったのです。​

以後、二代目喜右衛門は、屋号を「風月堂」とし、雅号は「清白」と名乗るようになりました。また、それまで使っていた小倉姓も大坂屋の屋号にちなみ、現在まで続く「大住姓」に改めました。​

このときをもって「大坂屋」は「風月堂」となったのです。​

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1829年(文政12年)、松平定信公は亡くなり本所霊巌寺に埋葬されました。上野風月堂は今日でも、大恩人である定信公の命日に、和菓子「かぼちゃ菊」を墓前へ献納し続けています。​

《現在の風月堂のロゴマーク》

《現在も供えられている上野風月堂謹製のかぼちゃ菊》

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松平定信公が隠居した下屋敷「浴恩園」は、現在の築地市場跡にあたります。そして初代風月堂があったのは京橋南伝馬町。今の地図で見てもその距離が非常に近いことがわかります。 歩いてほんの20分ほど。 さらに松平定信公の上屋敷があった八丁堀は目と鼻の先でした。細やかな気配りやフットワークの良さが喜右衛門の魅力の一つだったのでしょう。

《築地八町堀日本橋南絵図  国立国会図書館蔵》

《東都御菓子調進司 東京都江戸東京博物館蔵》
画像提供:東京都江戸東京博物館 / DNPartcom

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相撲や歌舞伎役者の序列をランキング化した番付表は、宝暦年間(1751年~1763年)にはすでに紙に刷った形で発行されていました。やがてその番付表に見たてて、物事を東西にわけてランキング化する見立て番付も盛んにつくられるようになりました。江戸の菓子屋をランキング化した『東都御菓子調進司』も、見立て番付の一種です。​

ときは幕末動乱期へ~江戸は大きく動く​

1834年(天保5年)、水野忠邦公は老中に就任し、風月堂ではその翌年に、後の五代目喜右衛門が誕生しています。​

やがて時代は幕末動乱の序奏とも言える弘化・嘉永へと向かいます。​

1853年(嘉永6年)にはペリーが浦賀に来航。江戸をはじめ日本中が、幕末の動乱へ突入していきます。​

風月堂はこの間も、京橋南伝馬町で暖簾を守り続けますが、その苦労は容易なことではなかったでしょう。​

京橋南伝馬町を古地図で見てみると、江戸城の本丸(皇居)を目の前とする現在の東京駅のすぐそばであることがわかります。​

界隈には風月堂の名付け親である松平定信公の屋敷をはじめとした大きな大名屋敷が、また定信公が隠居した築地、同心が多く住んだ八丁堀など、江戸幕府ゆかりの屋敷が数多く点在していました。​

《京橋南伝馬町あたりの地図
○印が京橋南伝馬町周辺。江戸城に非常に近い》*2

幕末の江戸は、激しい政情の動きのみならず、1855年(安政2年)の安政の大地震や、1863年(文久3年)に起きた文久の大火など、大きな災害にも度々見舞われました。しかし、この間も風月堂は江戸・京橋南伝馬町の地に踏みとどまり、菓子商を続けていきました。​

実はこの頃の風月堂では、西洋化の波にいち早く乗り、すでにパンを作っていたという記録も残っています。​

そして1867年(慶応3年)、ついに幕府は大政奉還に踏み切りますが、翌年には戊辰戦争が勃発。風月堂はこの時、薩摩藩に兵糧となるパンを納めています。​

幸い、江戸城の開城により、江戸の町が戦火に見舞われることはありませんでしたが、その後の東京遷都など、風月堂も幕末維新の嵐の只中に身を置くことになりました。​

出典:*1,*2 WikipediaよりPublic domain下にある画像を複製・転載​

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