上野風月堂について

History of Fugetsudo

1868 明治のおはなし

五代目大住喜右衛門、進取の才を発揮する​

幕末の動乱期を無事に乗り越え、明治を迎えた風月堂は、四代目喜右衛門の代へと入ります。​
しかし四代目は若くして亡くなり、子供もいなかったため廃家となってしまいます。風月堂の家督は四代目の実弟である五代目喜右衛門が継ぐこととなりました。​

初代喜右衛門から続く進取の気性は五代目にもしっかりと受け継がれていました。​
明治5年には西洋菓子の製造を開始し、リキュール・ボンボンやビスケットを日本国内で製造販売しています。​​

また五代目喜右衛門は、風月堂当主として初めて暖簾分けのシステムを導入しました。​
その第1号が番頭であった米津松造で、風月堂米津本店として、日本橋両国若松町に開店させたのです。​
1877年(明治10年)に上野公園で開催された政府主催の「第1回国内勧業博覧会」では双方の店が出展し、鳳紋賞を受賞しています。​
当時はまだチェーン店のシステムなど、なかった時代ですが、「暖簾分け」というシステムで新しい市場を開拓していったのが五代目喜右衛門でした。​

History +α

1882年(明治15年)には上野動物園が、翌年には鹿鳴館が開館するなど、東京はまさに文明開化の真っ只中。風月堂でもスウィートポテトやアイスクリームを販売しています。​

明治中期の風月堂総本店(京橋南伝馬町)​

1889年(明治22年)発行の「和洋菓子製法獨案内」。風月堂主人題字とあるのは当時の当主、五代目大住喜右衛門のことです。​

五代目大住喜右衛門の息子、大住省三郎が「上野風月堂」を開店​

五代目喜右衛門は自身の三番目の息子を、廃家となっていた四代目喜右衛門の養子にいれ、兄の家を復興させます。この息子こそが上野風月堂を開店する大住省三郎です。​
省三郎は兄である六代目喜右衛門のもとで修行を積んだのち、1905年(明治38年)、「上野風月堂」を上野広小路に開きます。​​

この頃、暖簾分けをした米津松造から、さらに暖簾分けの形で、風月堂の系列店が増えていきました。​
当時、暖簾分けをする際には、必ず総本店に赴き、許状を得ることが決まりでした。年始には一門総勢が南伝馬町に集まり、新しい暖簾を総本店から与えられることが習わしであったそうです。​

1914年(大正3年)7月14日東京朝日新聞に掲載された風月堂一門の名前が連なった広告。風月堂総本店の隣に「上野広小路 大住省三郎」の名前があります。​

東京の一大繁華街、上野に店を構える​

維新の際には戦場にもなった上野界隈ですが、そもそも上野は、徳川家の菩提寺である寛永寺や不忍の池などがある江戸屈指の名所でした。​

大住省三郎が店を構えた上野広小路(現在の上野風月堂本社のある場所)は、当時から今と変わらぬ大通りがあり、老舗が軒を連ねるメインストリートです。​
とくに明治の時代は、上野公園の開園をはじめ博物館や動物園の開館、上野駅の開業など大イベントが目白押しで、東京の一大繁華街として賑わっていました。​

時は日露戦争の真っ只中。厳しい情勢下での開店でしたが、省三郎は総本店からの強い後押しを受け、今日の上野風月堂の礎を築いていきます。​

開店当時の上野風月堂の店舗。扇の暖簾が見えます。​

江戸時代から続く老舗の評判は、瞬く間に上野界隈に広がり、毎日のように大口の注文が相次ぎました。写真にある配達の箱車が、店頭に列をなしていたといいます。​

省三郎は、決して評判の上にあぐらをかくことなく、カステーラやワッフル、シュークリームなど次々と新しい商品を売り出していきます。​

その品揃えとモダンな味わいは、下谷・浅草地区の文化人たちにも愛されていきました。​