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上野風月堂について

History of Fugetsudo

1929 ゴーフル誕生のおはなし

誕生に立ち会った職人​

1929年(昭和4年)、風月堂一門によって代表菓子「ゴーフル」が誕生しました。​

このゴーフルの誕生に立ち会った上野風月堂 市村文兵衛工場長(故人)※1が、社史作成の為に綴った手記があります。当時の詳しい様子が記されていますので、一部を抜粋しゴーフル誕生秘話としてご紹介いたします。​

市村文兵衛氏直筆の手記。​

“ゴーフル誕生当時の工場の様子”

「1929年(昭和4年)の入店当時、南鍋町風月堂の和菓子部工場は、南伝馬町総本店、南鍋町風月堂の両店の商品を製造していました。​

年末に隣家からの火災により独身者の寮と洋菓子工場の一部が火災にあいましたため、洋菓子工場と和菓子工場が一所になりました。そして工場の一部を改造して寮とし、約30名の方々が寝起きするようになりました。洋菓子工場の職長は門林弥太郎氏で、大阪北浜風月堂におられた川村氏が次長として働いておられました。また神戸風月堂の吉川氏も修行のために洋菓子部におられました。」​

“カルルス煎餅からゴーフルへ”​

「当時はセンベイ屋の杉山さん(注:煎餅担当の意味)がカルルス煎餅※2を焼いていましたが、ときどき見本用にゴーフル用のセンベイを焼いては届けておられました。当時は米津恒次郎氏の配合表の指示があり、粉は杉山さんの配慮によりときどき銘柄を変えて焼かれておられました。私の入店当時はすでに何十個と焼かれ研究されていたそうですが、米津氏の気に入るようなセンベイはなかなかできず、杉山さんはお困りのようでした。」​

「ゴーフル用の粉の見本として日清製粉と日本製粉から全製品の粉を取り寄せ、次々と焼いていきましたが、米津氏の気に入るものはできませんでした。​
1929年(昭和4年)の9月頃から10月初旬になって、最後に色の黒い内地産の麦を主体にした中力粉「そば・うどん用」の日本製粉の『竹』という銘柄の粉を使用して焼いたセンベイを米津氏にお届けしましたところ、口どけや歯ざわりがとても良く米津氏も大変気に入り、やっと合格いたしました。」​

「クリームに使用いたしました油脂はUSA製品の『スノードリフト』というショートニングでした。​
クリームはバニラとチョコレートの2種類で、缶はチョコレート色の缶を使用し12枚入りの缶は1円20銭で、24枚入りの缶は2円40銭でした。参考までに申しますと、当時の物価は銀座でも『そば』が9銭、『市電』は片道7銭といった時代でした。」​

“時代の先端菓子ゴーフル誕生”​

「当時の和菓子は砂糖を多く使用し甘みの強いものが多く、ゴーフルのようなソフトで甘みの少ない商品は最高級なものとして大変にお客さまからご好評をいただきました。​

そのころより杉山さんは毎日ゴーフルを焼かれ、杉山さん、私たちがクリームを作り丁寧にサンドするようになりました。1929年(昭和4年)10月末のことでした。」​

戦前の上野風月堂のリーフレット

中央の黒い缶がゴーフル、右側の円柱形の缶がカルルス煎餅です。​

※1 市村 文兵衛(いちむら もんべえ)​
昭和4年、南鍋町風月堂に入店。昭和10年に上野風月堂へ移ります。戦後は上野風月堂の復興に尽力し、上野風月堂の和菓子部の職長、工場長をつとめました。​

※2 上野風月堂では、明治の初期より「カルルス煎餅」を販売していたという記録が残っています。​
カルルス煎餅とは今でも温泉土産でよく見かける軽い炭酸煎餅の原型となった商品。

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